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房総高校野球物語

甲子園初出場

あと一歩
 大正12年(1923年)、前橋中で開催された関東大会で千葉中が快進撃を見せる。1回戦不戦勝の後、2回戦で銚子商を13-0、3回戦で足利工を7-2、準決勝で地元・前橋中を5-4で破り決勝に進出、夢の全国大会に王手をかけた。決勝の宇都宮商戦は、前半優勢に試合を進めたが、7回に2四球5失策が集中し、惜しくも優勝を逃した。しかし、全国に手が届く位置まで来ていることは確実で、期待は大きくなる一方だった。

関東大会を初めて千葉で開催
 大正13年(1924年)、初めて関東大会を千葉で開催した。拡張した千葉中グラウンドで7月27日から6日間の日程で行われ、千葉からは千葉中、千葉師範、銚子商、成田中、成東中、茂原農、佐倉中、大多喜中の8校が出場した。
 優勝候補の千葉中は順当に勝ち進み、準決勝で前橋中と対戦した。前年も対戦しておりこれが事実上の決勝戦と言われ、前橋中側も100名以上の応援団がかけつけた。試合は、千葉中のエース浅倉投手が12安打を打たれた上、失策も多く、期待された初の栄冠も消し飛んだ。
 なお、この年から春の選抜大会が開催され、また甲子園球場が完成している。

千葉中・千葉師範の和解戦
 千葉師範の練習は、平日4時間、土日は5時間行われていた。試合になると陸上部や剣道部、水泳部から部員を借りて来ることもしばしばだったが、大正末期にはそのようなこともなくなっていた。
 ライバルであった千葉中と千葉師範は、野球紛争以来8年間の試合中止の状態が続いていたが、両校OBが話し合い、反目していることは野球の発展上もよくないとし、両校長を訪ね復活を訴えた。その結果、大正14年(1925年)1月11日に和解戦が行われることとなった。
 当日、両校の職員・生徒全員が応援に参加した。両校にエラーが続出した試合になってしまったが、大きな混乱もなく無事に終わり、11-2で千葉中が勝っている。

ついに千葉師範が悲願達成!
 大正15年(1926年)7月26日は千葉県高校野球史に新たな1ページが刻まれた日である。
 この日、全国中等学校優勝野球大会への出場権をかけた南関東大会決勝戦が千葉中グラウンドで行われた。宿敵茨城勢の水戸中を迎え討つのは千葉師範。千葉県勢初の甲子園出場の瞬間を見ようと、近くの寒川の漁民や野球ファンが内外野に張り巡らせた荒縄の外に溢れた。
 千葉師範は、成東中、銚子商、水戸商を敗る快進撃を続けていたものの、エース渋谷は限界ギリギリの状態。味方のエラーもあり早々と3失点。中盤以降も攻め続けられ6回表までで0-7の大差となってしまう。しかしその裏、水戸中の守備の乱れや渋谷の右翼線二塁打などで一挙5点で一気に押せ押せムードとなり、8回裏にはダブルスチールやスクイズで逆転に成功した。期待と興奮の中、9回を抑え8-7で千葉師範が優勝、ついに甲子園出場を決めた。

千葉県勢、甲子園初出場
 8月17日、千葉師範が甲子園に登場し、新潟商と対戦した。しかし拍手や歓声が大音響となって響く甲子園独特の雰囲気にのまれ、緊張の中で新潟商に4-9で敗れました。エース渋谷は「先頭打者にはコントロールがきかないほどアガっていた」というコメントを残し甲子園を去った。記念すべき千葉県勢の甲子園での初試合は緊張の中であっという間に終わってしまった。
 この後、千葉師範ナインは全員教員となり、千葉の野球の底辺拡大に貢献したという。

巨人軍発祥の地
巨人発祥の碑
 高校野球(中等野球)とは直接関係ないのだが、千葉県の野球史において欠くことが出来ないのことがある。昭和9年(1934年)、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリックをはじめとする全米オールスター・チームが来日、読売新聞社が編成した全日本と対戦したのだ。これに先立って10月15日に全日本が合同練習をしたのが習志野の谷津球場であった。その中には京都商2年・後に伝説の豪球投手となる沢村栄治もいた。
 この全日本軍がその年の暮に大日本東京野球倶楽部となり、翌年の2月のアメリカ遠征中に東京ジャイアンツになった。日本初のプロ野球団が習志野で産声を上げたということで、谷津に記念碑もある。