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房総高校野球物語

戦後の混乱と成田中の活躍

列車強盗
 昭和21年(1946年)、6年間のブランクを経て中等野球が復活した。再開第1回目には、成田中、千葉商、千葉工、佐原中、成東中、市川中、千葉中、匝瑳中、野田工、関東中、市川工、銚子商、佐倉中、安房中の14校が参加し、予選の千葉大会が開催された。県営球場がイモ畑になっていたため、参加14校を4ブロックに分けてブロック予選を行い、それぞれ勝ち残った4校が千葉医大グラウンドに集結し熱戦を展開した。
 戦後初の千葉を制した成田中は南関東大会でも卯田投手の好投もあり優勝を飾り、全国大会初出場を決めた。
 甲子園へ向かう成田中ナインを乗せた夜行列車が米原駅に止まった時、陸軍の復員軍人らしき数人の男が列車強盗に入った。列車は大混乱、強盗は網棚から荷物を降ろし窓から投げ出し、それを仲間が持ち去る。強盗団は間一髪でナインの食料には手をかけず引き揚げたと記録が残っている。食料難時代の事情の悲惨さがわかる、怖いエピソードだ。
 全国大会は甲子園が米軍に接収されているため使用出来ず、会場を西宮球場に移しての開催であった。

誤審
 開会式直後の第1試合に登場した成田中は、全国大会第1回大会の覇者・京都二中と対戦した。0-0で迎えた6回の成田中の攻撃。二死ながら2塁打の石原照夫を置いて5番・石原利男。京都二中のエース田丸の直球をセンターへクリーンヒット。大会復活後初得点は間違いなしと思われた瞬間であった。センターからバックホームされたものの捕手はタッチは出来ず、頭から滑り込みホームイン。のはずが、主審の村井は「アウトーッ!」の判定。必死に抗議のジェスチャーをするも受け入れられず、すぐにコーチの浅井が手招きする。石原照夫は立ち上がり、ベンチに引き上げ、戦後初得点は幻に終わった。
 このさわやかで潔い成田中ナインに、開会式から残っていた大観衆は喝采を送った。試合はこの後、9回表に1点を許し、成田中は惜敗した。

(成田高校所蔵)
問題のシーン
 その後、幻の得点のシーンの決定的写真が見つかるという後日談がある。これはホームに滑り込んだ瞬間をとらえた写真で、大阪駅の日本交通公社に飾ってあったそうだ。村井球審はこの試合以後、審判を辞退しています。(左写真では、捕手はボールを捕っているようだが、タッチはしていない。見えにくいが、手はしっかりホームに伸びている)
 木内監督は後に次のように感想を述べている。

「待望の甲子園行きが実現したが、その準備が大変であった。米、味噌持参である。寄付金集めから米集めと、先輩、ファン諸君の努力は特筆に値する。香里の成田山別院もよく面倒を見てくれた。入場式の感激は筆舌につくし難い。当時の印象として、甲子園の野球は今までとは異なる、どこか神聖なものがあり、勝ち負けを争う所ではない。参加することが尊いのだ。ベストを尽くせば良いという感じだった

再び野球がやれる喜び、全国大会に出場するということは、それだけ多くの人の協力があってのものであり、この喜びと感謝という純粋な気持ちがあったからこそのエピソードと言えるだろう。
 成田中は「誤審があっても負けないチーム」を合言葉に、休みは元日だけの猛練習を開始、硬球の恐怖心を取り除くため、瞬発力を高めた特製バットを使い、打球を逸らすたびに一歩前進という、文字通り「地獄のノック」で鍛え翌年を目指した。

千葉県中等学校野球連盟発足
 昭和22年(1947年)7月10日、千葉中において千葉県中等学校野球大会の打ち合わせ会が開かれ、この席上で「千葉県中等学校野球連盟」が論議され、設立されることが決定した。加盟学校は、前年の予選参加14校に加え、長生中、東葛飾中、船橋中、国府台中、茂原農、安房水産、多古農、京成工、鉄道教習所の計23校。理事長には千葉中校長・坂斉武之助が就任した。

千葉の早慶戦と翻った判定
 昭和22年(1947年)7月20日の千葉大会2回戦、千葉中が5-0とリードした千葉商の攻撃中のこと。千葉商・中島の打球は左翼線ギリギリへのライナーを放つ。ボールは整備が充分でない千葉医大グラウンドのレフト線の草むらに入ってしまう。判定はファウル。次の瞬間、3塁側の千葉商応援席から若い男がグラウンドに突進、球審の胸ぐらをつかみわめきたてた。いくら説明しても戦後の闇市などで暗躍するこの人物には通用せず。白線は3塁までしか引いておらず、近くで見ていた千葉商応援団にも判別はつかない状況。試合は40分以上中断しており、5点リードしている千葉中側からも「1点や2点はどうでもいいから早く再開を」という声が上がり始める。結局3人の審判が協議の結果、問題の打球は2塁打として1塁走者の生還を認め、5-1とすることで決着した。審判の判定が翻ったのである。
 千葉中の勝ちで試合は終わったものの、この事件はその後中等野球連盟の理事会で問題となり、千葉商野球部長の掛布泰治氏が責任を取らされました。ミスタータイガース・掛布雅之の父である。

青リンゴ
 昭和22年(1947年)、連続出場を目指す成田中のエピソード。食料難の時代の知恵か、成田ナインの中でラッキーセブンの7回に皆で青リンゴを食べるようになっていた。勝利を呼ぶ青い果実が成田中のおまじない。
 この年も成田中は強く、大差で千葉大会を勝ち進み、準決勝で銚子商、決勝で千葉中を破り優勝。横浜中村球場で行われた南関東大会でも湘南中、川崎中に勝利し甲子園出場を決めた。前年は西宮だったが、今度は本物の甲子園だ。
 念願の甲子園、前年の鬱憤を晴らすかのように初戦の2回戦は松本中を10-0で激破し。3回戦の高岡商も破り、千葉県勢としては初のベスト4に進出した。
 迎えた準決勝、青リンゴ作戦がバレてしまい、注意を受ける。試合は延長10回に力尽き、その年優勝した小倉中に敗れた。決勝点は、取り払われていたラッキーゾーンが砂場のようになって守備を妨げてのランニングホームランだった。

秋季大会と春季大会
 昭和22年(1947年)10月、県営球場で第1回千葉県中等学校秋季選抜野球大会が開催された。4地区に分かれて行われた予選を通過した精鋭8校を集めて開催され、成田中が優勝した。
 翌年の春にも春季選抜大会が開催されるようになった。

2年連続の決勝対決、成田と佐原
 昭和23年(1948年)の千葉は、3年連続出場を目指す成田と、その成田を春の新制高校選抜大会で破り「史上最強」と言われた千葉が優勝候補に挙げられ、特に千葉は「千葉中野球」の甲子園復帰が悲願であり燃えていた。
一番右が松丸投手 正式に復帰した県営球場(千葉寺)で、1回戦で千葉と対戦したのは古豪・佐原。エース松丸が要所で強力なドロップを投げ込み、千葉打線を封じた。佐原は、洗濯板球場と言われるほど荒れた球場での好運なイレギュラー等で1点をもぎ取り、1-0で優勝候補を破る金星を挙げた。
 勢いに乗った佐原は、千葉商、千葉工と次々に破り、とうとう決勝へ進出。相手は予想通り勝ち上がって来た成田。佐原は成田の好投手・石原を打てず惜敗した。
 成田は南関東大会でも勝ち3年連続出場を果たした。しかし期待された甲子園では思うような成績を収められなかった。

延長17回の熱戦のあとの悔し涙
 翌昭和24年(1949年)の千葉大会決勝でも石原と松丸を擁する両校の対戦となった。この年は前年とは一転、打撃戦となり、終盤までもつれたが6-5で佐原が雪辱を果たし、千葉を制した。
 この年の南関東大会は大宮球場で千葉と埼玉の上位4チームによって争われ、実力では千葉が埼玉を圧倒していた。埼玉勢は戦前、戦後を通じてまだ一度も夏の甲子園に進出したことがない(春は出場あり)。大会前の予想では千葉を制した佐原を筆頭に、4年連続を狙う成田、ミラクル投法と呼ばれた平林を擁する千葉が有力で、埼玉勢を推す声はあまり聞かれなかった。
 このうち、硬くなった佐原が初戦で敗退する波乱があり、準決勝で激突する成田-千葉が事実上の決勝戦と目され、好試合となった。初回に2点を先制した成田だったが、コーナーワークが抜群の好投手・平林を打てず、逆に7回に同点に追いつかれ、試合は延長に突入。大投手戦となった延長17回、四球の鈴木を2塁において、長谷部のタイムリーで千葉が勝ち越し、ついに成田の連続出場を止めた。いよいよ「千葉中野球」の甲子園復帰の時だ。
 ところが翌日、目もくらむような暑さの中、平林に精彩が見られず、3-5で熊谷にまさかの敗戦。埼玉県勢が初の出場切符を手にした。千葉ナインの目からは止めどなく悔し涙が溢れた。

千葉一の悲願
 昭和25年(1950年)、千葉は千葉一高と名を変え、悲願の戦後初出場を目指す。準決勝で宿敵・成田に敗れたものの、上位4校が南関東大会に出れるため、千葉一は野球センスの良い長谷部を投手に起用し南関東大会に望んだ。成田が敗れる波乱があったものの、千葉一は長谷部起用が当たり、浦和勢を連破。決勝でも安房一を下し、ついに14年ぶりの甲子園を決めた。前年に目前で涙を呑んだ「千葉中野球の甲子園復帰」がついに現実のものとなった。
 しかし甲子園では急造の長谷部が通用せず、済済黌に3-14で大敗してしまった。

(成田高校所蔵)
穴沢投手
穴沢投手の大記録・21奪三振
 昭和25年(1950年)、昭和26年(1951年)と連続で千葉大会を制しながら、南関東大会で敗れた成田が昭和27年(1952年)、3度目の正直を狙う。千葉大会では、春を制した新鋭・船橋が旋風を巻き起こしたが、決勝で逆転勝利し3年連続で千葉を制した。
 南関東大会では浦和商の遅延行為による日没再試合があったりで苦戦を続けたが、エース穴沢の好投もあり優勝、4年ぶりの甲子園出場を決めた。穴沢は小柄だったが、打者めがけて投げる大きく落ちるドロップ(インドロ)が武器だった。
 甲子園では好投手を擁する山城、強打の水戸商を下し、北国旋風を巻き起こし波に乗っている函館西と対戦。函館西の太田投手を打てず苦戦、4回には無死2,3塁の大ピンチ。穴沢は目をつぶっても投げられるほど習熟したインドロを連投。インドロ、インドロ、インドロ。3者三振。試合は1-1のまま延長に入った。10回裏の函館西の攻撃はまたしても2,3塁のサヨナラのピンチとなったが、ここでも2者三振で切り抜けた。延長15回、ついに成田が得点し函館西を振り切りった。この試合で穴沢が奪った三振は21個の大会タイ記録。「小さな大投手」と呼ばれ甲子園のファンに強烈な印象を残し賞賛された。