(高橋保隆氏所蔵)
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ノーヒットノーランと完全試合
昭和34年(1959年)の春の千葉大会。房総球史初の快挙・完全試合が生まれた。千葉市穴川にあった千葉敬愛グラウンドにおいて千葉商大付の高橋保隆投手が対東邦戦で達成した。ライト前ゴロを含む守備力も含めての偉業達成だった。高橋投手は前年の夏の大会でもノーヒットノーランを達成しており、完全試合とノーヒットノーランの両方を達成しているのは、長い千葉の高校野球の歴史の中でも高橋ただ1人だけである。
夏の大会の完全試合は翌35年(1960年)の千葉経済の高橋利雄投手が専大松戸戦で記録している。
なお、昭和34年(1959年)、35(1960年)年、千葉勢は甲子園出場に届いていない。森投手の活躍があったとはいえ、まだ千葉は低迷期と言える。
まさかの誤審で延長へ・・・
昭和39年(1964年)、千葉大会準々決勝は優勝候補・習志野と茂原農の一戦。試合は茂原農2点のリードのまま最終回も二死走者なし。優勝候補の敗退は時間の問題となっていた。
ここで習志野は佐藤が意地の右中間2塁打を放つ。四球で二死1,2塁となり、長打が出れば同点の可能性も出て来た。習志野は決死の代打攻勢で須藤を送る。その須藤が期待に応えて右前打へクリーンヒット!2塁走者が返り1点差、1塁走者は3塁へ、その間に打者走者も2塁を伺う。この時、中継に入っていたセカンドが打者走者と接触、走塁妨害となった。これで1点差の二死2,3塁となり試合再開。
と思いきや、主審が打者走者は3塁へ、3塁へ達していた1塁走者はホームインの宣告。茂原農側が猛烈な抗議。「1塁走者はホームを目指す行動がなく、タイミング的にも3塁ストップであったはず。打者走者も2塁はともかく、3塁への進塁は考えられない」という抗議で審判団も集まり協議をしたがテイク1ベースは覆らず。スタンドの応援団も不穏な空気を醸し、スタンドも騒然とする。その後、茂原農側が再度の抗議を行ったが認められず、それどころか大会規定により「トラブルを起こした側を敗戦とみなす」との強硬姿勢。スタンドから審判を批難する声が乱れ飛ぶ中、茂原農がやむなく試合続行に応じこのまま延長戦に突入した。
キャッチャーのボークで試合終了
続く延長10回の裏、習志野は谷沢が左越2塁打を放ち、中継が乱れる間に3塁へ到達。続く池田の打席の2球目にホームスチールを敢行。正規の投球からのタイミングは完全にアウト。しかしジャッジはセーフでサヨナラ。歓喜に沸く習志野がベンチを飛び出し試合終了の挨拶に整列。一方の茂原農は判定に不服でその場を動かず整列に並ばない。応援団からも怒号が飛ぶ。
茂原農の抗議に対する答えは、「本盗成功ではなく、投球を捕手がホームベースの前方で捕球したため打撃妨害となり、3塁走者が走っていたのでキャッチャーボークとなり生還が認められる」とのこと。
試合終了後、茂原農側は提訴しようとしたが、大会本部から、アマチュア野球に提訴権がないとの説明を受けた。
その夜、緊急大会委員会が開かれ、審判委員長から9回の走塁妨害に関し誤りがあったことが確認された。担当審判は茂原農の1年間の練習を無駄にしてしまったと涙を流したという。
大会後、経緯の説明等に大会役員が茂原農を訪れた。その中で茂原農側から審判技術の向上の要望等を受け、落着したという。
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