| 悪路で有名な木下街道の交通の便を良くするために明治42年(1909年)9月28日に鎌ヶ谷-馬込-法典-中山深町間が開業した。路線のほとんどは木下街道上南側に全線単線で敷設された。鎌ヶ谷は木下街道随一の宿場で、松戸経由で江戸へ、港のある船橋へと交通の要衝であった。また中山村は法華寺の門前町として栄えていた。 当初は貨物のみ、主に農作物や肥料の人馬牛糞を運んでいたが、明治44年(1911年)1月9日から客車の運転も開始している。明治45年(1912年)10月5日、深町-鬼越間開通。翌年には鬼越-中山間、鬼越-行徳河原町間も開通する。河原町へは江戸川水運の利用のための延長で、船便と連絡していた。 各駅には積卸しのための引込線と荷扱所があり、行き違いも行った。客車運転開始時には、行き違いのための待避線は途中にも数カ所作られているが、待避線のない箇所でばったり出会った場合は軽い方が荷物を降ろし貨車をレールから外して行き違った。鬼越駅近くに本社があり、深町駅にも車庫があった。 鬼越-河原町間の工事申請は「国鉄線路水平横断ハ断ジテ不可能ナリ」とされたが、その後、なぜか大正元年(1912年)に突然承認書の交付を受けている。こうして国鉄総武本線、京成電気軌道と平面交差するという驚くべき路線が誕生した。江戸川舟運を利用する場合も多く、回漕店や汽船会社とも協力し、東京への一貫輸送を図った。 客車は、トロッコにテント張りの屋根をつけただけのものと、客車仕立てでドアもガラス窓も付いたものとがあった。客車は常雇いの車夫が4人おり、このうちの1車当たり2人で押していた。貨物車は荷主が近所の農家等から必要数だけ雇って押した。坂に馬を配置し、人が押すのを助けたという記録もあるが、ブレーキの効きが悪いため下り坂が危険で、結局馬の採用は中止された。下りでは豆腐屋のようなラッパを吹いて走行した。 鎌ヶ谷-中山駅前間を1時間半で結び、一日8往復、中山駅前-河原町が30分で12往復走っていた。だが、業績は思ったほど上がらず、建設資金の負担が大きく、大正6年(1917年)10月には、行徳塩田を壊滅させた台風により線路が水没、流失、復旧は困難となった。また大正5年末に開通した京成線が今後増発する際の交差問題も重大であった。結局、第一次世界大戦による鉄材高騰の利益を狙いレールを撤去・売却の方針がとられ、大正7年(1918年)10月3日に東葛人車鉄道は廃止された。 東葛人車鉄道の各駅の跡地のいくつかは現在も駅として利用されている。鎌ヶ谷駅は新京成線の鎌ヶ谷大仏駅に、馬込駅は東武線の馬込沢駅に、法典駅はJR武蔵野線の船橋法典駅になっている。 |
| 河原町 - 中山駅前 - 鬼越 - 深町 - 法典 - 馬込 - 鎌ヶ谷 |
東葛人車鉄道の面影は現在に残っていません。運転手が動力も兼ねて客車押していたのはもう遠い昔の話しになってしまいました。鎌ヶ谷駅のあった場所は新京成線の鎌ヶ谷大仏駅になっていますが、周辺は交通量の多い賑やかな街になっています。ここを人間がトロッコを押していたなど信じられない気がします。 鎌ヶ谷から木下街道を南に下りていきます。比較的のどかな景色が続きますが、やはり人車鉄道の面影はありません。大正時代にすでに廃止されているので当然かもしれません。東武野田線の馬込沢駅の近くに人車鉄道の馬込駅がありました。法典駅のあった場所にあるJR武蔵野線船橋法典駅周辺も宅地開発が進み、新しい街並に変化しており、時代の移り変わりを感じます。この先には巨大な中山競馬場もあります。 ![]() 深町に近付くと下り坂になり、最初の終点が近くなります。ここからの下りでブレーキが効かずに人身事故が発生したこともあったようです。人車鉄道は木下街道の南側(進行方向に向かって左側)を通っていたはずです。深町を過ぎると木下街道の交通量はかなり多くよく渋滞も起こります。京成電鉄の踏切がありますが、人車鉄道も現在の踏切のように平面交差していたというのですから驚きです。京成や国鉄の列車の本数が少なかったからこそ出来た素朴な時代の1コマと言えます。 ![]() 「鬼越2」の交差点のところに中山駅と東葛人車鉄道の本社がありました。現在もかなり古い建物が建っています(左写真)が、何の建物かはわかりませんでした。ここから下総中山駅前に向かい、現在のJR駅北口に下総中山駅前という駅がありました。これが最初の終点です。 中山駅からは河原町へ向かう線路が延びていました。JRを越える直前付近や真間川を渡る道路が廃線跡に道路として残った部分ですが、周辺は近代化され、他の細かい道も沢山作られ、すっかり面影はなく、地元の人でも、この道が、辺り一面畑だった戦前から存在し、しかも人力の鉄道だったとは知らないようでした。休日を中心に大渋滞を起こすこの道は、コルトンプラザの横から南下し、京葉道路で一旦途切れるも、鬼高パーキングエリアの反対側から、工場地帯の中を抜け、江戸川まで通じています。 江戸川直前の細い路地にも一部、人車鉄道の軌道で使われたルートが残っていますが、現在では線路があったなど思いもよりません。この道はすぐ隣り(写真の右方向)にある路地と並行しています。古い通りに並行するように線路が作られていました。 現在の江戸川は、天然の川ではなく人工の放水路です。東葛人車鉄道が通っていた当時はまだ建設中で、ところどころに水がありましたが、線路周辺は広大な空地になっていました。対岸へは橋梁ではなく盛土で渡っていました。この位置には、現在水道局の橋が架かっています。江戸川を渡りすぐに右に折れると、路線跡は江戸川の堤防となっていますが、その場所にある道路は現在も当時の線路跡と同じ位置です。行徳橋で左に曲がり、右奥に終点の河原町の停車場がありました。ここは現在、船の停泊場になっていてひっそりとしています。 ![]() |