| 古来より内房側は船運が発達していた。明治11年(1878年)には帆船に変わり、汽船が登場、徒歩なら4日かかる東京-館山間を、順風下の帆船なら約10時間、汽船なら6時間で運行していた。水上交通が盛んな内房では、巨額の費用を投じての鉄道敷設には消極的で、明治25年(1892年)の鉄道敷設法にも鉄道計画はない。 明治31年(1898年)10月、ようやく房総鉄道が蘇我-木更津間の免許を得ている。これは東京防衛の一環として、軍事的に必要であるとの判断があったからだろう。しかし房総鉄道は指定期日までに着工出来ず失効。結局、明治40年(1907年)10月の時点で、内房にはまったく鉄道のない空白地帯であった。 変わって、県営鉄道建設の構想が持ち上がる。これは陸軍鉄道連隊から車両、器材を借用し、工事も連隊の演習として実施、開通後は国鉄に貸すというプランであったそうだ。このプランが注目され、政府・鉄道院総裁の後藤新平が内房を視察、鉄道連隊による建設から一転、国鉄が建設することとなった。 明治45年(1912年)3月28日、蘇我-姉ヶ崎が開通。大正元年(1912年)8月21日には木更津までが開通した。鉄道誘致に熱心であった木更津町は、廃寺跡を無償で駅用地に提供している。木更津までの駅は、蘇我-浜野-八幡宿-五井-姉ヶ崎-樽葉(現袖ヶ浦)-木更津で、木更津線という名称がつけられていた。最速で1時間22分であった。全て千葉始発着で、両国橋から直通の銚子や成田方面と比べ、ローカル線の雰囲気が強かった。しかし、両国橋から木更津までが約3時間10分で、汽船の時代よりは大きく短縮された。 木更津以南は、山が海岸線に迫っているためにトンネル工事等、建設の難しい区間であったが、房総線より優先し建設が進められたため順調に開通区間が増え、大正4年(1915年)には上総湊まで、翌年には浜金谷、更に翌年には鋸山トンネルを通り安房勝山まで、大正7年には那古船形、そして大正8年(1919年)5月24日に安房北条(現館山)まで開通した。名称も木更津線から北條線に改称されている。以後も、大正10年(1921年)に南三原まで、翌年に江見まで、更に翌年には太海に延伸し、大正14年(1925年)7月11日に安房鴨川までが全通した。 大正12年(1923年)9月1日、関東大震災発生。震源に近いこともあり、北条線の被害は甚大で、全線が不通。那古船形駅付近や南三原-和田浦間では線路が4mも沈下し、崩壊や亀裂の生じたトンネルも多く、また鉄橋も橋脚が折れたり落ちてしまったものも多かった。駅舎では、周西(現君津)、佐貫町、保田、岩井、那古船形、安房北条、九重、千倉、南三原が倒壊、木更津、青堀、大貫、上総湊、安房勝山、富浦の6駅が大破した。運転中の旅客列車1本、貨物1車も脱線している。復旧は、岩井-富浦間の南無谷トンネルに手間取り、11月28日までずれ込んだ。このトンネルは復旧が困難であることから、新しいトンネルを掘削したが、関係者から「南無谷」は「南無阿弥陀仏」に通じるということで、「岩富トンネル」に改称されている。 昭和4年(1929年)4月15日に千葉から茂原、勝浦を経由し、房総線が安房鴨川まで開通、房総循環鉄道が実現し、名称を房総線は房総東線、北條線は房総西線となった。昭和11年頃には海水浴客で賑わいを見せ、館山、保田、勝浦、一宮、興津、富浦、大原、岩井の順に滞在者が多く、盛夏40日間の海水浴客は房総全体で306万人に達している。大半は臨海学校の学童であったが、内房側が半数以上の56%となっている。通常の列車では輸送しきれず、臨時列車を増発した。夏季のみの臨時準急列車で「さざなみ」という名称がつけられていた。 終戦後の昭和20年、房総西線でも食糧不足による買い出し等で混雑度は395%に達していた。窓からの出入りは常識で、屋根の上にも乗客があふれていた。列車の修理は追い付かぜ、辛うじて新設される車両は幹線優先で、汚い千葉の汽車は有名であった。また、長浦村がアメリカ軍人の支援を得て長浦駅の新設に成功したエピソードがある。現在も長浦駅前通りに「長浦駅記念碑」があり、アメリカ軍人3人の名前が見える。 昭和28年(1953年)、川崎製鉄の溶鉱炉に火が入り、翌年に千葉港が開港、昭和34年(1959年)には東京電力千葉火力発電所が操業を開始、日本は高度経済成長期を歩み、これと歩調を合わせ、工業地帯を沿線に持つ房総西線の乗客は急増。10年間で3倍、30年で10倍以上に増えている。君津以北の乗客が急増したにもかかわらず,単線では増発出来ない。全てディーゼル化した昭和30年以降、輸送力アップのため時代を逆行してでもSL列車を増やさざるを得なかった。 昭和25年(1950年)、戦後初めて海水浴客用臨時列車「潮風」号を運転。これ以降、夏になると各地から蒸気機関車、電気機関車、客車、気動車を集めて臨時列車を多数運転した。昭和38年と翌年には、まだ電化されていない房総西線に電車を走らせている。千葉まで自力で走行した後、パンタグラフを下ろし、ディーゼル機関車2両に引かれ館山へ向かった。電車のドアは気動車よりもはるかに高いため、ホームとの高低差が激しく、駅員が踏み台を抱えてドア間を走り回った。SL牽引の客車の車内照明は車掌が1両ごとにスイッチを入れたり切ったりするのだが、あまりの混雑に車内を移動出来ず、トンネルでも真っ暗のまま通過していた。冷房どころか扇風機すらない時代に定員の3倍の乗客を乗せていた。両国発の臨時快速列車は「潮風」の他、「さざなみ」「夕凪」「かもめ」「なぎさ」「しらすな」「学童」と色々あった。「学童」は臨海学校輸送用の列車だが、昭和34年(1959年)迄で廃止になっている。生徒の輸送がバスに移ったためである。昭和33年以降は準急が増発され、「ローマの休日」にあやかった「房総の休日」号、これが昇格した形の「房総(内房)」号が運転を開始している。 昭和39年(1964年)、ようやく蘇我-浜野間が複線化。昭和45年(1970年)迄に君津まで達している。並行して電化工事も進められ、昭和43年(1968年)7月から千葉-木更津に電車が運転開始。使用された電車は、戦中、戦後に作られた粗末の電車の代表例になっている悪名高き63系電車を改造し、それまで総武線各駅停車で活躍していた車両であった。昭和44年(1969年)7月には電化区間が千倉まで伸び、急行、普通とも全面的に電車に切り替わった。 増え続ける乗客に、昭和47年(1972年)7月に東京駅直通の総武新線と津田沼までの複々線化が完成。房総西線は内房線と改称し、東京-千倉間に特急「さざなみ」が登場した。129キロの距離を走る日本一短い特急でありながら、途中9駅も停車。最高速度は錦糸町-津田沼で120キロだが、残りの区間は80〜90キロ。国鉄のダイヤ改正の際、急行の「なぎさ」より遅くならないよう頭を痛めたという。その結果、新宿-館山間は特急は2時間16分、急行で2時間18分であった。東京地下駅への直通運転により、横須賀線へも直通となり、逗子発木更津行きのような長距離運転も行われるようになった。 |