血筋の系譜

加藤清正


老中の謀計にはめられ改易、配流される

 二条城で徳川家康と豊臣秀頼の会見を成功させ、熊本に帰国した加藤清正が突然の脳溢血で50歳の波瀾の生涯を閉じたのは1611年。この時江戸にいた嫡男の虎藤はまだ11歳であった。
 虎藤は翌年、将軍秀忠より「忠」の一字を与えられ忠広と名のり、清正の旧領54万石の所領を安堵された。さらに秀忠の養女(蒲生秀行の長女秀姫)との婚姻がとり行われた。秀姫との間には嫡男光正が誕生する。父子二代にわたって徳川家と結びついた忠広の前途は洋々であるかに見えた。
 しかし忠広がまだ若かったことから藩政は5人の家老の合議制となった。ところが主導権争いから1618年には御家騒動に発展し、幕府は忠広の統治能力に不安をいだいたようである。
 1632年、運命は激変する。幕府からの突然の出府命令で忠広は取るものも取りあえず5月22日、品川に着く。ところが江戸に入ることを禁じられ池上本門寺で待機するように命じられる。6月1日、弁明の機会もなく、嫡子光正が謀書を偽造したとことと、忠広の近年の行跡が不正であるという理由で肥後一国を没収された上、忠広は庄内に配流、光正は飛騨の金森重頼へ預けられるという処分を受けた。
 光正の謀書の一件とは「老中土井利勝を首謀者として、将軍家光の弟忠長を擁して天下を傾けようと思うので、いそぎ同意すべし」という内容の偽書を加藤家だけが幕府に届け出なかったために、江戸藩邸を預っていた光正に謀書作成の疑いがかけられたのである。これは秀忠死亡直後の不安な世情の中で、反将軍的空気を一掃する必要を感じた老中土井利勝の謀計に、若い光正がはめられてしまったというのが真相であろう。
 忠広は配流を伝えた使者に対して、父清正愛用の鑓を示し、本堂の礎に押しあてて鑓の鉾先を折って見せた。徳川家に尽くしたこの鑓ももはや無用になったということなのだろう。
 忠広は1653年、53歳で没した。一方の光正は飛騨に送られた翌年、失意の中で没している。一説では忠広は庄内で一男一女を儲け、その子孫は現在に至っているという。


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