血筋の系譜

千利休


現在にいたる千家の血は後妻の連れ子の血

 千利休には長男道安と次男少庵(利休後妻の連れ子で宗淳ともいう)の二人の息子がいた。
 1591年、千利休が71歳で自刃した時はともに46歳で、道安は飛騨の金森長近の許に、少庵は会津の蒲生氏郷の許に身を寄せた。しかし間もなく前田利家や徳川家康らの斡旋で赦免され京都の本法寺前に土地を与えられ千家再興が認められた。だが、道安は、再び世間には出ないと決心していたので家督を継がず、のちに細川忠興の保護を受け、豊前の地で1607年、62歳で亡くなっている。
 利休の跡を継いだ少庵は大徳寺前にあった利休の旧宅茶室を本法寺前に移した。これが現在の表千家の不審庵である。少庵の隠遁後、千家を継いだ子の宗旦は利休の侘び茶を推進し、いわゆる茶道を確立した。
 のち、三男宗左が不審庵表千家、四男宗室が今日庵裏千家、二男宗守が官休庵武者小路千家の祖となって現在にいたる。


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