血筋の系譜

武田信玄


武田家滅びず!信玄以来の血脈は続いている

 武田信玄の子・勝頼は1582年、織田信長に攻められ甲斐の天目山でその嗣子・信勝とともに自刃した。ここに新羅三郎義光を祖とし、約500年続いた甲斐源氏の名門武田氏は滅びたのである。
 勝頼はこの時わずか6歳の娘を残しており、勝頼自刃後、駿河に落ちのびていたが、徳川家康の命により、その家臣・高力正長に預けられ、二十人扶持を与えられていた。1602年ふたたび家康の命により宮原勘五郎義久に嫁ぐ。宮原氏は古河公方足利高基の子・晴直を祖とする名族の支流で幕臣である。義久の妻となった勝頼の娘は嗣子に晴克を生み1659年天寿をまっとうした。
 この他、勝頼の子に関しては諸説があるようだが、いずれも確証はない。
 信玄の子で勝頼の兄に龍芳という盲目の兄がいる。龍芳は信濃の海野氏を嗣いでおり、その子・道快は甲斐の長円寺に住していたが、将軍・秀忠の時、子の信正とともに罪を蒙り伊豆大島に流刑となる。1663年、信正は赦免され江戸に戻り、その子・信興は将軍・綱吉の側用人・柳沢吉保の許に萬居、1700年、幕府より甲斐八代郡五百石を与えられ幕臣となり、武田氏を称することを許される。ここに武田家は再興され、1701年には表高家に列せられ、信玄以来の血脈を保った。
 信興のあとは子の信安が嗣ぐが、その子の信用が父に先んじて没したため、柳沢信鴻の三男・信明を養嗣子に迎える。子孫は高家として幕末におよび、家系は今日に至っている。
 信玄の弟・信実の子・信俊は川窪氏を称していて、後に家康に従い、やがて幕臣となる。その子・信貞は武田氏の称号を許され、信実から数えて14代で現在に至っている。


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