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尊王攘夷
房総における幕末の動乱は、吉田松陰等の来訪はあっても大きな尊皇論の流れとはならず、 むしろ開国論者の佐倉藩主堀田正睦が幕府老中首座として開港以降の国際舞台で活躍しています。
しかし文久3年(1863年)末、真忠組事件が起こりました。三浦帯刀(たてわき)、楠音次郎の触書によると、「報国赤心同盟之義士」を名乗り、国家のために身を投げ出して万民の困窮を救うことだけが目的で、賄賂まみれの重臣を非難、尊王攘夷のために同志を集め挙兵し、夷族を討ち、皇国の災いを絶ち、万民を救済することを力説しています。
上総国山辺郡小関村(九十九里町)の旅籠(はたご)大村屋を本拠とし、下総国匝瑳郡八日市場村の福善寺、上総国長柄郡茂原村の藻原(そうげん)寺にも拠点がありました。浪人、無宿人、百姓の次男、三男など200人近くに増加し、その大半が地元出身の貧窮民が多かったようです。
明けて翌年正月、幕府と近隣の藩兵の一斉攻撃により、主なメンバーは討ち死にまたは捕縛され事件は終わりました。
この年の3月には水戸の尊王攘夷派が筑波山で挙兵しました。天狗党の乱です。天狗党はしばしば利根川を渡り下総へ乱入、利根川に近い地域の多くの豪農らから金や米などを強制的に納めさせました。文久3年(1863年)には2か月間も佐原の街を暴れまわり、この後明治元年(1868年)には八日市場近郊で宿敵・書生党と激戦を展開しています。
数年来の不作に加え、外国貿易により経済変動、長州藩への攻撃のための物資徴発等により、米価を中心に物価が急騰、西国で頻発していた打ちこわしが江戸でも大規模に起こり、房総でも八日市場や木更津で米屋が打ちこわされました。
幕府は廃止されていた関東郡代を元治元年(1864年)に再設置し、慶応3年(1867年)にはこれに変わり勘定奉行の下に関東在方掛(ざいかたがかり)が置かれ、下総国相馬郡布佐村に陣屋が完成します。なお、この時点ではすでに鳥羽・伏見の戦いは終わっており、政権の中心は京に移り、徳川慶喜追討伐令が出されていました。
戊辰戦争と房総
慶応4年(1868年)正月に戊辰戦争が始まり、房総でも多くの血が流されました。徳川慶喜の守護を名目に結成された彰義隊には下総関宿藩(万字隊)、結城藩(水心隊)の脱藩士なども多数参加し、新政府軍と衝突、結城城争奪戦を繰り広げました。
4月初め、新撰組の局長・近藤勇と副局長土方歳三が流山根郷の醸造・長岡屋(鴻池儀兵衛の説も)にて協議し、近藤が官軍に投降、その後、板橋宿で斬首となりました。土方は流山から江戸へ潜入後、市川の国府台へと移動しています。
4月11日の江戸開城を迎えて事態は一層深刻になります。武器引き渡しを不満とする旧幕府将兵が大量に江戸を脱走し、関東一帯に散り各地で抗戦を続けます。旧幕府歩兵奉行・大鳥圭介は部下と共に下総国市川に至り、流山で抗戦し敗れた「新撰組」の残党・土方歳三や江戸にあった会津・桑名藩士等と共に合流、その数を増やし、下総西部から下野、常陸、東北会津の一帯は新政府軍と旧幕府軍との主要戦場となっていきます。古河藩・関宿藩などの諸藩もこの戦いに巻き込まれます。
徳川義軍府
時を同じくして江戸開城前夜に脱走して南下し、上総方面を目指した旧幕府撒兵頭・福田八郎右衛門に率いられた撒兵隊、砲兵隊、遊撃隊の一部は海上から下総国登戸(千葉市)に上陸し、姉ヶ崎を経て木更津に至り、本陣を真里谷村(木更津市)の真如寺に置き、徳川義軍府と称し西上総一帯を占拠。義軍府は、久留里、鶴牧、飯野、一宮藩などに働きかけて物資や武器、兵員を調達して力を貯え、4月下旬には市川や船橋にまで進出しました。この間にも旧幕府海軍副総裁・榎本武揚は、新政府に対して軍艦の引き渡しを拒み、旗艦「開陽丸」以下の軍艦7隻を率いて品川沖を脱走し、海軍総裁・稲葉正巳を頼り安房国・館山湾に入港。徳川義軍府は会津藩との連携に望みをつなぐ作戦を取ります。
閏4月初め、市川・船橋の戦いを皮切りに、徳川義軍勢に対する新政府軍の攻撃が開始され、追撃戦は千葉町から、五井、木更津と続き、徳川義軍勢は敗走。同じ頃、上総1万石の請西藩主・林忠崇(ただたか)や遊撃隊員らは旧幕府海軍の掩護を受け、館山から相模国真鶴に渡り、5月下旬まで箱根など各地でゲリラ戦を展開していました。
市川・船橋の戦いの情報が東海道先鋒総督府に入ると、副総督・柳原前光(さきみつ)は自ら諸藩兵を率いて出陣、閏4月7日、房総最大の譜代藩・佐倉藩に乗り込み、勤王か佐幕かの態度決定を迫り、これを帰順させました。11日には朝敵となっている大多喜藩主・大河内正質(まさただ)に佐倉藩幽閉の処分を申し渡し、翌日大多喜城を接収しました。この日、房総の治安を維持するために幕府により設置されていた総房三州鎮静方の一人、阿部邦之助が柳原に帰順しています。もう一人の鎮静方・信太歌之助はなお活動を続けています。
開陽丸を率いる館山湾の榎本武揚らは一時は勝海舟の説得を受け品川に帰ったものの、 再び館山沖に出奔し、その後北へ向かい箱館へ至りました。
戦争終決へ
5月、江戸上野で彰義隊が壊滅、徳川宗家は駿府藩70万石への移封が決定され、林忠崇らも苦境に立たされ館山に戻り、その後すぐに東北に向かい出航しました。戊辰戦争の舞台は会津、東北方面に移っていきます。
5月初め、下総、下野両国の鎮撫が佐賀藩に命じられ、古河と宇都宮に下総野鎮撫府が置かれました。7月20日、総房三州鎮静方の一人・信太歌之助が銚子で捕らえられ、大小砲、槍、その他の武器類を多数接収、各地で部下が逮捕されました。
下総野鎮撫府は新政府が出していた「禁令五カ条(五榜の掲示)」を管下に達して旧来の高札と取り替え、自ら「教示之大意」と称する諭告を発しました。新政府軍に抵抗する者は朝敵であり、徳川慶喜の恭順の志にも背く「大逆無道」のものだと決めつけられています。
宮谷騒動
慶応4年(1868年)7月、江戸が東京と改称され、9月に年号を明治と改元、同じ月に会津藩が降伏しました。すでに閏4月に政体書により決まっていた府藩県三治の地方制度も実施されはじめ、7月に久留米藩士・柴山典が上州軍監から上総房州監察兼知県事(房総知県事)に転任し、市原八幡に赴任、房総における初めての新政府民政担当の地方長官となりました。
下総野鎮撫府が廃止され、下総知県事に、熊本藩士・佐々布(さそう)貞之丞が任命されました。戊辰戦争が続く中、地理的に下総は会津や東北にも続くため、首都防衛上から熊本藩の軍事力を背景に、安房・上総とは異なる位置付けをされたと考えられます。明治2年(1869年)1月、下総知県事の管轄地域を葛飾県、2月に房総知県事の管轄地域を宮谷(みやざく)県と命名されました。
明治4年(1871年)6月、宮谷県では戸籍調査のため戸長を職員が専断で任命したことをきっかけに庁内の対立が激化、民部省、大蔵省につながる反対派の工作もあり7月、柴山典知事以下、首脳陣がいっせいに罷免となりました。これがいわゆる宮谷騒動です。廃藩置県により中央政府の地方統制が強化される時期には柴山知事のように戊辰戦争の頃から一貫して房総の統治を担当し、個人の仁政意識から独断で動かす志士的な知事はもはや存在の余地はなくなっていたと言えるでしょう。
廃藩置県
徳川宗家の駿府移封に伴い、駿河の沼津など3藩、遠江の掛川、浜松など4藩が、さらには曽我野藩も房総への転封を命じられていました。そのため、廃藩となった請西藩を除いても16藩あった房総は24藩になり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県では葛飾県、宮谷県と合わせ、26県が並立することになりました。
さらに同年11月、全国的に県の統廃合が行われました。これにより全国は3府302県から3府72県に整理され、房総でも安房・上総一円に木更津県(一次案の久留里県から変更)、香取3郡を除く下総が印旛県(同じく一次案では佐倉県)、香取3郡と常陸6郡をあわせこれを新治県となりました。
明治6年(1873年)6月15日には、印旛県、木更津県が合併、千葉県が設置されました。県庁所在地は、両県の県境付近であり、かつ東京湾に近く東京寄りであることから千葉町に定められました。千葉県権令には柴原和(やわら)が就任しました。
明治8年(1875年)5月7日には新治県が廃県となり、香取3郡が千葉県に編入、同時に旧印旛県域の利根川以北の猿島などの4郡と葛飾、相馬郡の一部が茨城県へ編入しました。利根川を県境とすることで治安の維持や治水対策の上で便利であると考えたことが理由です。
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