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防人
東国の武人の勇猛さは有名で、蘇我蝦夷、入鹿は城柵の防衛に東国の健人(ちからひと)の守衛させたり、奈良時代の天皇側近の警衛にあたった中衛府(ちゅうえふ)の舎人は「東舎人」と呼ばれていました。このような東国の武人の伝統から九州に赴く防人にも利用されました。
房総からは一旦国司に部領されて難波津に集結し、海路筑紫に向かいます。難波までの食料は自費です。日数的には、上総・下総から平安京までは上り30日、下り15日、安房からは上り34日、下り17日となっています(『延喜式』による)上りの方が日数が多いのは、調傭物等の租税の運搬があるためだと思われます。太宰府と平安京は、海路で30日。現地では兵部省防人司の指令に従って職務に従事しましたが、近くに空閑地を与えられ、稲や雑穀を栽培し食料としていました。
蝦夷征伐
宝亀5年(774年)7月に陸奥国の蝦夷が桃生城を攻撃したのを契機に、弘仁2年(811年)閏12月に文室綿麻呂の奏上により戦闘を収束させることが認められるまで、いわゆる「三十八年戦争」がありました。
阿部比羅夫の遠征などで大和朝廷の勢力は北進していきますが、これと同時に房総他、東国各国は蝦夷征伐の兵力の基盤となります。
天応元年(781年)9月、外従五位下勲五等を賜った安倍猿嶋臣墨縄は、猿嶋郡の豪族で、前年3月に多賀城を陥落させた伊治(これはる)公アザ麻呂の反乱鎮圧の功によるものでした。安倍墨縄は、延暦元年(782年)に鎮守将軍大伴家持のもと、権副将軍に任命され、同3年には持節征東軍監、同7年には鎮守副将軍に任じられています。
同8年、征討軍は蝦夷の長・アテルイの本拠地を目指し北上川を渡りますが、反撃にあい、別将丈部(はせつかべ)善理ら25人が戦死、245人が負傷、さらに1036人が北上川で溺死するという惨敗を喫しました。安倍墨縄は敗北の責任を問われますが、これまでの功績により死罪は免れました。
弘仁2年(811年)閏12月に蝦夷との戦争が終結すると翌年に物部匝瑳連足継が鎮守副将軍から将軍に昇格。この後も代々物部匝瑳氏一族が鎮守将軍になっています。
秋田城跡からは「上総国部領解〜」と記された木簡が出土しています。兵を率いて秋田城に出征し、そのまま兵士を監督する任にあたっていた部領使が提出したこの木簡によれば、秋田城内の重要な門の警備宿直を上総国の兵士が担当していたことがわかります。
また、房総の豪族や民衆は、兵力だけでなく経済的にも蝦夷との戦いを支えていました。『続日本紀』の天応2年(782年)の記事に房総3国、相模、武蔵、常陸などの諸国に命じ、穀10万石を陸奥の軍所に送ったとあります。宝亀7年(776年)にも安房、上総、下総、常陸4国が船50隻を購入して陸奥国に集結させているので、相当数の船を所有したいる豪族がこれらの諸国にいたことになります。また、当時、利根川の内海面が軍需物資の輸送基地であったこともわかります。
蝦夷進出状況
平安時代の初めの797年、坂上田村麻呂は征夷大将軍となります。征夷大将軍とは蝦夷を討つための臨時の将軍です。この時の官位は「征夷大将軍、近衛権中将、陸奥出羽按察使、従四位上兼行陸奥守鎮守府将軍」です。
坂上田村麻呂は人気があり遠征に加わる希望者が多く用意した馬が足りなくなる事もありました。蝦夷を討つために豪族の子に武芸を習わせ専門の兵としました。この兵を「健児(こんでい)」と言います。坂上田村麻呂は千葉県にも立ち寄り各地にゆかりの地があります。
647年に越後の渟足柵(ぬたりのさく)、648年に磐船柵、724年に多賀城、750年に秋田城、758年に桃生城、780年に胆沢城、803年に志波城まで進出し、国土を開拓していきます。850年には津軽まで達しています。
征夷大将軍・坂上田村麻呂は房総にも来ています。現在でも各地に残っています。
俘囚の反乱
嘉祥元年(848年)2月、上総の俘囚(ふしゅう)丸子(まろこ)らが反乱を起こしました。これに対し、上総・下総等の5か国に対し征討の命令が下り、2日後には上総国が俘囚57人を惨殺しました。俘囚とは、服属した蝦夷のことで、現住地から切り離し弱体化させる目的で諸国に移住させられていました。また公民として調庸を課したり、俘囚に対する財政支出を陸奥や出羽国以外にも負担させる狙いもあったと思われます。
俘囚の反乱はこの後も各地でしばしば起こり、上総国では貞観12年(870年)に再び事件が起こり、貞観17年には下総でも反乱が勃発、武蔵、上総、常陸、下野などの諸国の兵士各300人を動員し下総国を支援させ俘囚を追討しています。
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