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良忠
鎌倉中期、下総中南部一帯に浄土教の教えを説き歩く僧侶の一団が現われます。その中心人物が良忠で、年齢はすでに50代でした。良忠は石見(島根県)の生まれで、法然の教えを広めた弁長について浄土教を学び、関東の教化を志しやって来ました。彼の講議には50人から100人に及ぶ聴衆が集まり、房総でも浄土教への関心が強かったことがうかがえます。
千葉氏一族など地頭たちも良忠に説法の場を提供したり寄付をしたりしていましたが、やがてトラブルが起こり、良忠は活動の場を鎌倉に移動しました。
日蓮
良忠活動に遅れて、南の安房では全く対立的な新たな教えを説き始めたのが日蓮です。日蓮は貞応元年(1222年)、安房国東条郷(鴨川市)に生まれました。後に日蓮自らが「海人(あま)が子」と記し、南北朝の頃の宗内の伝承では「釣人権頭の子」とされ、遠江からの流人の子という伝承もあります。流人の子かどうかは別としても、海伝いに流動する海民の家の出身であったと考えられます。
12歳の時に天台の古刹清澄寺に登り出家します。ここで天台と真言の教養を身につけ、延応元年(1239年)から約12年間、鎌倉や京都を遊学し諸仏教を学びました。建長5年(1253年)、真の仏法は法華経であるとの結論を得、清澄寺で浄土教を激しく批判し、法華経を厚く信ぜよという日蓮宗を開宗しました。
当時の主流は浄土宗や禅宗ですが、これらは邪宗であり、日蓮宗だけが正しいと説く過激な説法は、かえって一般の人々や他宗信徒の反感をかってしまい、たびたび迫害にあいました。浄土教を信仰する地元の地頭・東条景信と対立したため清澄寺を追い出されてしまます。活動の拠点を鎌倉に移してからも浄土教をはじめとする様々な宗派を激しく批判し、ついには鎌倉幕府からも疎まれ、文応2年(1261年)に伊豆へ、文永8年(1271年)には佐渡へ流罪となりました。
この間の日蓮の宗教活動はめざましく、幕府に『立正安国論』を提出しました。日蓮を日本の主とし奈良の大仏等、法華経以外を焼き捨てないと外国に滅ぼされるというものです。実際に直後に元冦が起こりますが、九州で何とか食い止め侵略はされませんでした。日蓮に帰依する信者は次第に増えていき、その信者の一人で千葉氏の重臣でもあった富木胤継の館が後年、中山門流の発端となり、正中山法華経寺として法灯が受け継がれています。
元冦と千葉氏
鎌倉時代中期の千葉氏は房総のみに限らず、北は陸奥の東南部一帯から南は薩摩の島津荘の一部までの広大な所領を獲得し、まさに第一級の有力武士団となりました。宝治合戦で上総千葉氏が滅亡した例を除けば、一族は大きな打撃もなく、下総の守護と維持し、さらに伊賀の守護も長く務め、一時は大隅の守護まで兼任していました。
しかし、蒙古襲来時、千葉介で下総守護の頼胤が肥前の所領、小城郡(佐賀県)に下向、文永12年(1275年)の合戦で重傷を負い翌年死亡、嫡子・宗胤が後を受けて小城駐在したため、本国・下総は弟の胤宗が支配し、兄弟で対立することになってしまいます。小城の宗胤の子・胤貞は法華経寺地元の八幡荘の領主だからか、日蓮の弟子であった日高に帰依し、寺の俗別当として強力に中山門流を支えました。千葉介を二分する一方の千葉胤貞と強く結びついた中山門流は飛躍的な発展を見せることになります。
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