おせんころがし


現在ではキレイな道が通っていますが、その昔、勝浦の大沢あたりは切り立った崖の上に曲がりくねった細い道が通っており、九十九里から房州にかけて一番の難所でした。
その崖ぎわに石の仏と「孝女お仙」と記した碑がひっそりと立っています。昔から「お仙ころがし」と呼ばれているこの場所にはこんな話しがあります。

むかし昔、このあたりを治める殿様は、とても欲深な人でした。
どんなに貧しい家でも、不幸続きの家でも、家来に言いつけては容赦なく年貢を取り立てていました。

この村に、それはそれは親孝行で、気立てのよい「お仙」という娘がいました。
いつも病がちの父親の身の回りの世話をしたり、近所の家の百姓仕事の手伝いをしたりして暮していました。
母親は、お仙がまだ物心のつかない二つか三つの時に亡くなってしまい、親子二人でひっそりと暮していました。

ある年のこと、年貢の干しあわびを領主に出さなければいけない秋になっても、
お仙の父親は三日に一回か、四日に一回しか海にもぐれないほどに体が衰えてしまっていました。
でもそんなことを聞き届けてくれる領主ではないから、無理をしてでも父親は海に出なければなりません。
お仙は、父親の体が心配で心配でたまらないので、いつも海までは一緒について行くことにしていました。
「おとっつぁん、ずいぶん体がだるそうだかん、今日のあわびとりは休んだ方がいいっぺよ。」
「いや、そうも行かねえ。年貢の干しあわびを納める日が迫っているかんな。」
「あんまり、無理しねえでね。」
と言って、この日もお仙は父親について、崖の上まで行きました。
その時、急に海から疾風が吹きつけました。
父親は、よろよろっとして、崖から海へ転げ落ちそうになりました。
「あっ、おとっつぁん!」
お仙は、夢中で父親に後ろから抱きつこうとしました。父親は、その場に尻もちをついて、必死で草の根にしがみついて助かりました。
しかし、お仙はそのまま切り立った崖から海へ転がり落ちてしまいました。

この話を聞いた村人たちは、あわれなお仙の供養にこの崖の上のちょこっとした平らな土地に石の仏を置いたそうです。
それからは、誰言うとなくこの崖を「お仙ころがし」と呼ぶようになりました。


異説・お仙ころがし
むかし昔、強欲な豪族の厳しい年貢の取り立てに、たまりかねた領民が、その豪族の殺害を計画しました。
この豪族には「お仙」という娘がいました。
お仙は、父の強欲さに心を痛めていました。
領民たちの計画を知ったお仙は、父の身代わりとなって海に捨てられてしまいました。
父ではなく娘だったと知った領民たちは、後に供養のために供養塔を建てました。
古・お仙ころがし
むかし昔、大沢の村に住む美しい娘がおり、名前を「お仙」といいました。
ある時、この娘に2人の若者が恋をしてしまいました。
2人の若者は、お仙と結婚したいために、争い、2人とも海の犠牲になってしまいました。
そのことを知ったお仙は嘆き悲しみ、崖の上から身を投げてしまいました。

 このように「お仙ころがし」には何通りもの話しがあります。いずれもお仙が崖から落ちて死んでしまう悲劇の物語であることは共通していますが、それ以外はかなり違います。
 昔、外房一の難所であったこの場所では、恐らく遭難者も出ていたでしょうし、このような伝説が生まれやすい状況であったと考えられます。
 「古・お仙ころがし」は物語の舞台が勝浦であること以外は奈良時代の「手児奈伝説」と非常に似ています。手児奈伝説が勝浦・大沢まで伝わり、この難所と結び付いて新たな伝説になったのではないかと思います。また「異説・お仙ころがし」は「お仙ころがし」をもっと劇的にしたような感があります。「お仙ころがし」は江戸時代頃に年貢に苦しむ領民たちの間で生まれた「古・お仙ころがし」の変形版ではないかと想像します。
 「手児奈伝説」→「古・お仙ころがし」→「お仙ころがし」→「異説・お仙ころがし」という順に変化していたのではないかと思いますが、どうでしょうか。手児奈伝説については「
房総の歴史ページ」にあります。 (千葉情報館/Minstrel)


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